ゐざさの歴史

大正十年米屋で創業。

大地から噴き上がるような幻想的な霧と、古くから伝わる神秘的な物語の数々。
ゐざさの歴史は、聖霊なる地・大台ケ原を中心に培われてきました。

550年を越え今なお続く後亀山天皇の玄孫・自天王と忠義王を偲ぶ朝拝式への参拝を許された由緒ある家に、明治32年、生を受けた「ゐざさ」中谷本舗の創業者・中谷勘市郎、生まれ育った川上村柏木は、紀州と大和の文化を分散する伯母峰峠の北西に位置します。

大正時代、林業が盛栄を極め、吉野地方がかつてないほどの脚光を浴びる時代を迎えます。伯母峰峠の向こう、隣村の上北山村はその中心となって県内外から働き手が集まり、宝石店、カフェ、映画館などの施設も増え続けました。それに着目した勘市郎は地域で唯一の米穀販売権を手に、伯母峰峠越えを心に決めます。一族の反対を押し切って妻キクエ共々上北山村へ越したのは、大正十年のこと。この峠越えこそが、中谷本舗誕生の瞬間です。そのとき、修験道としても知られる伯母峰峠で、勘市郎はお遍路さんの山野袋を拾いました。山野袋を拾うと福が授かると伝えられており、当時の山野袋は、今なお中谷家の家宝として大切に保管されています。上北山村での勘市郎一家は、中谷本舗の草分けである米穀店を営むと共に、キクエは柿の葉すしを商品化しました。林業が盛んな間は村の人口も多く、米の販売量も相当なものでした。しかし戦後、高度経済成長と反比例するかのように、林業は衰退の一途を辿り始め、上北山村も過疎化の時代を迎えます。奈良県北部は言わずと知れた行政の中枢。対して大台ケ原を中心とする南部は奈良県の観光の中心地にしよう。時の県知事も吉野地方の観光開発に力を注ぎ、昭和三六年には大台ケ原ドライブウェイが開通しました。創業者から事業を受け継いだ二代目・中谷宏は、ドライブウェイの中ほどにあたる見晴らしの良い小高い土地に、観光客向けの茶屋「経ヶ峰茶屋」を構えました。茶屋の少し山手には、慶長一三年、十年間の修行の末に現地で入寂した天台宗の僧侶・丹誠上人を奉る「経塚」という小さな石塔が立っています。これは、厳しい修行を積んだ上人の徳を慕って、麓の村人たちが経塔を作って供養したものです。

当時、これといった名産品のなかったこの地方で、茶屋を営むについては何か名物を作らねばと使命感を背負い、宏と妻のカツエは、以前から母キクエが得意とする寿司を供することを考案しました。一つは、柿の葉すし。もう一つ、大台ケ原独自のものをと考え出されたのが笹寿司で、今のゐざさ寿司の原形です。茶屋のあった大台ケ原には、たくさんの笹が自生しています。柿の葉すしの技や味を活かした笹で包んだ寿司はいかがなものか。それならば、「吉野の鮭」つまり塩鮭を使おうと、彩りも鮮やかな鮭寿司が出来上がりました。なぜ山里の吉野で鮭が有名なのかと申しますと、林業が盛んだった吉野へは、交流のあった全国各地の同業者から、保存のきく高価な魚として新巻鮭を塩漬けにした塩鮭が贈られてきたのです。そのため家庭料理の寿司としても、家庭によっては鮭を使うところもありました。茶屋で笹寿司(現ゐざざ寿司)を並べてお茶と共にお客さまに出したところ、ひな寿司のように美しく縁起も良いと、結婚式などの縁起物にも供されるようになりました。

実兄が奈良県内の文化財を管理・保護する職に就いていたため、カツエはその手伝いで頻繁にお寺やお宮へ出入りしていました。そのなかに、世界遺産にも登録された東大寺大仏殿の昭和大修理を指揮したことでも知られる、東大寺管長・清水公照猊下との出会いがありました。幾度となく言葉を交わしているうち、公照猊下が山あいの茶屋へお越しくださることになり、これがきっかけで、公照猊下より中谷本舗の屋号として「ゐざさ」の命名を承りました。
遥か昔、地の人々を恐れさせた背中に笹の生えた大イノシシ「猪笹王(いざさおう)」の伝説が残る地であることにちなみ、「いざさ」という呼び名を頂戴しました。そして伝説では「イノシシ」を意味する「い」を「為」を意味する「ゐ」に置き換え、数々のありがたい出会いに恵まれた私どもの幸運をより多くの方々にお返しできるよう願いを込めて、神秘と霊力が満ちる大台ケ原の笹に包んだ名物の寿司が「ゐざさ寿司」と名付けられたのです。その後は日本国建国の始祖、神武天皇即位の足跡(大和・大台ケ原から橿原)を辿った寿司として、橿原神宮へも毎年、二月十一日・建国記念の日や各大祭にも献上させていただいております。

中谷本舗の歴史を振り返ると、かつて勘市郎が越えた伯母峰峠が象徴するように、数々の出会いと幸運、苦難という峠を越えてきたことが今日の私どもの礎であると考えます。「ゐざさ」の屋号には、“伝説や人との出会いを大切にする心と、新たな峠越えの勇気を次世代へと伝えてゆきたい”そんな、私どもの思いが込められています。

紀伊・大和は、おすしの国

紀伊半島は、本州のほぼ中央から、太平洋に突き出た日本最大の半島。雄大な黒潮にあらわれる長い海岸線、そして、中央部には、山岳宗教の霊地として有名な大峰山や日本の年間最高降雨量を記録する「大台ヶ原」などの原生林地帯、そして果無山脈(はてなしさんみゃく)という名があらわすように1千メートルから2千メートル級の山々が延々とつらなります。
大峰も大台ケ原も、ともにユネスコ「生物圏保存地域」に登録された、貴重な動植物が息づく自然の宝庫。神聖な息吹につつまれた、美しい恵みの地です。霧深いそうした地に、人々は聖なるものをみようとしたのでしょう、平安時代に最澄が近江の地に比叡山を、空海が紀伊の地に高野山を開いて以来、この地域は険しい山岳での修行を行なう修験の聖地ともなり、また、熊野本宮を中心とする熊野への信仰が生まれ、身分の高いものから、庶民に到るまで、「蟻の熊野詣」といわれるように困難な道を参詣に訪れたのでした。さらに、庶民が旅にでかけられるようになった江戸時代には、群れをなし、伊勢神宮へとおまいりに出かけたものでした。吉野から熊野本宮へとつながる大峯奥駆道をはじめとして、和歌山、三重、奈良にまたがる紀伊山地の霊場と参詣道は、日本の文化的背景を語るものとして、2004年7月、ユネスコ世界文化遺産に登録されています。
神武天皇が東征したおりは、船で浪花津に上陸することができず、熊野に上陸してそこから北上して、橿原宮に入って即位したといわれる神話の舞台ともなりました。中世には、南北朝に分かれた朝廷の南朝方の根拠地ともなり、吉野やその周辺には行宮(あんぐう)がありました。また幕末の勤皇の志士たちによる天誅組事件など、なぜか尊王の志の篤い歴史がありました。
そうした歴史のなかで、海沿いの津々浦々に、街道沿いに、川筋に、谷あいの盆地に人々が住み着き、海と山をなりわいとする独特の生活文化を形作っていったのです。
紀伊は、和歌山県の旧国名「紀伊の国」に由来しますが、西側はいまの和歌山県のほぼ全域、東側は三重県の一部、内陸部には奈良県が含まれました。ですから、「紀伊・大和」と、ここでとり扱う地域は、昔の紀伊の国に大和の国を加えた地域ということになります。
熊野地方といっても、和歌山県に属する新宮、三重県に属する熊野市や熊野灘があります。大台ケ原も奈良県から三重県にまたがっています。平野部が少なく、海と山が豪快にであう地域……よく似た生活環境や文化など、多くの共通点をもった地域といえるかもしれません。海岸線と山の間が迫っていて、平野部が少ない土地柄、最近でこそ道路事情はよくなりましたが、長く陸の孤島といわれる場所がたくさん残されていた地域でもありました。
ただ、多くが林業や漁業に携わるこの地域の人々は、そういうことをものともせずたくましく生きる知恵と技がありました。漁師のおかみさんが魚を入れたたらいを頭の上にのせ、一山越えて隣村まで売りに出かけるなど朝飯前。けっして村々が隔絶しているのではなく、山の人々には山中の杣道のネットワークが、漁師たちには、黒潮を介した交流があり、海と山の人の間には、産物の交易を通じての親交など、現代人が想像できないような交流がありました。
ハレの日のごちそうとして生まれたさまざまなおすしの多彩さは、そんな海と山の暮らしのなかでこそうまれたもの。海沿いの人々は、魚をたっぷりと使ったおすしを、山国の人々は、遠い道のりを人の背中で運ばれた海の恵みを貴重なものとして、一味工夫をしたものを…。おすしは、鏡のように、その地域の風土や歴史や人々の生活を映しだしてくれるかもしれません。
そのなかには、いまの江戸前のにぎりずししか知らない人にとっては、風変わりといっていいおすしもあります。名産ずしとして売られているもの、この地域のお店で味わえるもの、一部の家庭でしかつくられなくなったものなどいろいろですが、この地域の全体を見渡してみれば、日本のおすしの歴史そのものが、ここにあるという感じです。

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