お寿司のルーツ

おすし初めの初め、1200年以上前からあったお寿司。

お寿司といえば、イメージするのは、カウンターの高級なにぎりずしでしょうか、専門店やコンビニなどで買える手軽なすしでしょうか。その幅の広さを、今の時代の私たちは自由に使い分けられる豊かさを享受しているわけですが、そもそもの成り立ちからみると、おすしとは、たいそう高価なもの、特別な時や所でしか味わえない贅沢なご馳走でした。はじめは朝廷や貴族たちだけのものが、時代とともに庶民にまで広がり、それとともに、多様な形や食べ方がうまれていった歴史があるのです。
現代の暮らしのなかでは、もはや民俗学などでいうハレの日はないにひとしいものですが、おすしはご馳走、晴れがましさのある料理という感覚は、ほんの20年から30年ほど前までは、確実に残っていたように思われます。地域中でつくる祭りの日の郷土色豊かなすしや、遠足の日に持たせてくれた母の巻ずし、人が集まる日の手作りチラシずしなどは、そうした意識のあらわれだと思えます。 それは素材の贅沢さによってではなく、私たちの意識のどこかに刻まれたおすしのもつ非日常感やそれを手間ひまかけて手作りすることの豊かさによって、生まれるのかもしれません。
ロハスという言葉に象徴されるように健康的な生活をめざす潮流のなかで、ヘルシーで、フレッシュで、おいしいおすしは、いまや世界中の人々にとっても、特別なごちそう。
まちがいなく日本が誇る最高の食品といえますが、果たしていつ頃から、どういう経緯で、この日本でつくられはじめたのでしょう。すしは日本人が育んだオリジナルだとはいえますが、残念ながら、そのルーツは、東南アジアにありました。

すしのルーツは、東南アジア…古代、すしとは魚の漬物のこと

すしの原型は、紀元前の東南アジア、東北タイやミャンマーあたりの平野部、水田地帯で、稲作とともに成立した魚の保存食であろう (石毛直道の説)、というのが、いまの定説になっています。それが中国に伝わり、稲作文化とともに、日本に伝来したのではないかといわれます。
日本のもっとも古い文献に現れた例では「養老令」(718年)などに、すしの記述があり、それよりも以前にすしは伝来していたと考えられるのです。イネの渡来と同じころというと、遅くとも弥生時代ですから、あるいは日本へのすしの伝来は、いまから1200年以上前に、さかのぼることができるかもしれません。
ここでいうすしとは、いったいどんなものだったのでしょう。すしは、主に川魚などの動物性たんぱく質を保存するための知恵としてうまれました。コイやフナなどに米飯と塩を混ぜて、重石を置き、数ヶ月から数年かけて、熟成させる。するとたんぱく質の乳酸発酵によりすっぱくなり、独特のうま味がでました。またこうして発酵させたものは、長期間の保存が効いたのです。この場合、ご飯はどろどろになってしまうので、魚のみを食べます。いわば魚の漬物といえますね。これがすしの原型で、古い形の<なれずし>です。
中国雲南省南部の少数民族地域や、タイ王国の東北部では、いまもこの形のなれずしが作られ、市場でも売られているそうです。日本は、みそや納豆など発酵食品の宝庫といわれますが、この地域でも、やはり納豆や魚醤をつくる習慣があり、すしは照葉樹林帯文化という共通項から日本にしっかりと根付いたと考えられています。
ただ、保存食には違いないのですが、保存をするだけなら、塩漬けや干物といった方法も早くからあります。やはり、チーズのように発酵させることで出る独特のうま味が、まだたいした調味料もない時代においては、貴重だったのではないでしょうか。
日本でこうした古代のすしの原型をいまも残しているのは、滋賀県の名産、「フナずし」です。塩漬けした子持ちフナにご飯を詰めて、樽に1年ほど漬けこんでつくりますが、やはりご飯は除いて、魚だけを食べます。まさに酒の肴にぴったりな独特の匂いと風味の食品で、1000年以上前からつくられ、当時の朝廷にも特産物として貢納されていました。
10世紀(平安時代の中期)に制定された「延喜式」は、すしの歴史でよく引き合いに出される文献ですが、そのなかに、西日本各地の特産品として、さまざまな<なれずし>が、納めるべきものとして記載されています。 それによると、アユずし、フナずし、サケずし、アメノウオずし、雑魚ずし、アワビずし、貽貝ずし、猪ずし、鹿ずしなどがあげられ、川魚の保存法として伝来した<なれずし>が、時代が進むにつれ、漬ける魚の種類が増え、海の魚や貝、獣の肉などにも応用されるようになったことがうかがえます。ちなみに、アユずしの項目では大和、紀伊が、猪、鹿の項目では紀伊の名も見えます
こうして朝廷に集められた各地方の名産ずしは、こんどは、現物支給として、貴族や、高級官吏の手にも分配されました。
すしを税として納めたり、現物支給として部下に下されたり、という、と今の感覚では首を傾げたくなりますが、当時の<すし>は、チーズのような発酵食品の高級な珍味であり、保存食であったのです。やがて地方の役人クラスの食卓にものぼり、しだいに庶民の舌にも…というかたちで、徐々に下々へと広がっていきましたが、室町時代あたりまでは、あまり形態が変わらず、すしは魚の漬物であったことに違いはありません。

ごはんも食べたい…その願いがかなった、室町時代の<生なれずし>

魚や肉の保存食であった<なれずし>が変貌して、いまのようにご飯も一緒に食べる形になったのは、室町時代といわれます。漬け込みから発酵期間を経て完成まで長い時間を要する<なれずし>を、もう少し簡単に作って食べようとする<生なれ>の加工法が誕生します。ごはんと塩漬けの魚で発酵させるのは、同じですが、<なれずし>が約3ヶ月~1年の発酵期間をおくのに対して、<生なれ>は約2週間~1ヶ月ほどで、発酵をきりあげます。完全に熟成させないので、魚貝類はまだ生の段階ですが、ごはんは酸味が程よくついておいしく食べられます。ご飯はやはり貴重品ですから、昔から捨ててしまうことに抵抗を感じていたのが、ようやくこの時代になって魚と共に食べられるものとなり、すしは魚の保存食から、飯の料理に進化したのです。
いまからみると、<生なれ>は、まだまだ野趣に富んだもので、独特の匂いもありましたが、この時代になると、すしといえば<生なれ>をさし、高級な食べ物ではありましたが、一部の貴人だけのものではなく、庶民の口にもはいるようになっていたようです。 16世紀に活躍した堺の茶人、津田宗及の残した茶席での献立に、<生なれ>が何度となく登場。隆盛をきわめたお茶席の料理としても盛んに出されたようです。信長や秀吉が口にしたすしも、やはりこの<生なれずし>でした。
織田信長が御所造営に際し、滋賀県から専門の人夫を多数呼んで、石を運ばせたとき、京童はこう歌ったといいます。
生成りのすしにも似たる近江衆 石を重しと持たぬ日はなし
これによると、石といえばすぐに<生なれずし>を連想するほど、ポピュラーなものになっていたこと、発酵は短縮されたが、重石をそうとう効かせたものであったことなどが想像されます。
おすしの革命といってもよいほどの急激な展開を見せたこの15~16世紀(室町時代、戦国時代、安土桃山時代)は、食文化そのものが大いに発展した時代でもありました。
まず、炊飯方法が「蒸す」から、「炊く」にかわり、現代と同じやわらかい姫飯(ひめいい)が普及、1日2度だった食事回数も3度に変わりました。当時の文化の先端をいっていた茶道の席に供される料理である点心が完成の域に達し、また四条流など調理技術の流派が生まれました。味噌からできた溜まりを調味料として活用するようになり、醤油という字が現れたのも、味噌汁を飲む習慣がうまれたのも、この頃です。料理に対する関心が高まっていたのです。日明貿易や南蛮貿易がはじまり、てんぷら、饅頭、砂糖、カステラ、ようかんなど、いままでになかった食べ物や調理法が渡来しました。
さらに、この時代には、商業が発達。固定したお店こそまだ持ちませんが、各地に物売りの市が立ち、庶民がそうした料理素材を手に入れやすくなっていました。
世は下克上の時代、家柄やしきたりという旧来のものを遵守するより、何事も実力でとりしきっていく活気のある時代。こうした社会の熱気にうながされて、すしにも大きな進展があったといえるかもしれません。といっても、有職故実を大切にする朝廷や貴族たちのあいだでは、旧来の魚の保存食であった<なれずし>を食していたのですが。

紀伊・大和に残る<生なれ>の伝統

ごはんもたべられるすしになった<生なれずし>。その熟成期間や製法は、時代と共にさらに短縮化、簡略化していきますが、これが今も各地の郷土料理として残る発酵させるタイプのすしの原型になります。秋田のハタハタずし、鯖の糠漬け(へしこ)を水洗いし、腹に米と麹を入れて発酵させる福井のなれずし、岐阜のアユのなれずし、かぶらとブリを使った石川のかぶらずし、大阪の小鯛の雀ずしなどが、全国に名が知れたところ。
紀伊・大和でいえば、<生なれ>の分布は非常に広く、有田・紀北地方のアジ、鯖、タチウオ、イサキなどの海魚を材料にしたものや熊野のサンマずし、熊野・吉野のアユずし、吉野や橋本の柿の葉すしなど豊富な種類があり、いずれもいまも名産ずしとしてその伝統が残されています。
こうしたすしは、後に酢を使うようになっても、重石を置いたり手で押したりして、なんらかの熟成期間をおく製法がとられ、それは江戸や明治はおろか、ついこの20年~30年前まで続いていたのです。
明応5年(1496)の文献「書言字考節用集」に、アユずしで有名な吉野の釣瓶ずしの名も見えますが、春冬で4~5日、夏秋は1日でできるとあって、さらに熟成期間を短縮した<早ずし>に近づいています。

古式<生なれ>有田・日高の鯖のなれずし

かつては、秋祭りが近づくと、和歌山県の有田・日高地方一帯、紀北地方のどの家でも一家総出でつくられた「鯖のなれずし」。なれずしといっても、滋賀のフナずしのように、魚だけを食べるのではなく、ご飯も食べる<生なれ>タイプです。塩鯖の上に、棒状の大きな握りめしを作って乗せ、長いアセ(暖竹)の葉でぐるぐる巻きにして、樽に詰め、重石を乗せて長期間じっくり発酵させます。アセの葉は、和歌山県の海岸部によく自生していますが、手に入らない地域では、バレン、バショウの葉を用いました。作り方は地域や材料によっても違いますが、塩を振ったご飯を粘りが出るまでよくこねて丸めるなどの特長があり、ご飯の量も大目です。
姿ずしの形をしているので、食べるときに切り分けますが、独特の匂いと、ほのかな酸味の風味がかもし出され、食べなれるとクセになるという不思議な魅力があり、ふるさとを離れた人が、さかんに懐かしがる風味です。
お酢自体は、江戸時代にはかなり流通していたのですが、やはり高価なことと、なれずしの乳酸発酵独特のうまみがあわさった滋味が愛されたのでしょう。というのは、地域的にみて、生魚が手に入らない内陸部ではないので、イキのいい生鯖を家庭でわざわざ塩鯖にして用いることもあるからです。
といっても、このなれずしも、熟成に時間がかかること、一名「くされずし」とよばれるほどの強烈な匂いのためか、最近は、酢でしめた魚と酢飯を包み、発酵させずに一晩おいただけの「早なれ」が好まれる傾向。そのかわり、祭の時だけでなく昼食や軽食として、気軽に食べられるようです。
本格的な「鯖のなれずし」は、もはや家庭でつくるか、一部の店でしか、手に入らないとはいえ、酢をいっさいつかわない製法を今も残している貴重な例です。
熊野のサンマずしや吉野、熊野のアユずし、柿の葉すし、和歌山市の小鯛の雀ずしなども、元はこの製法に近かったのではと思われます。

お酢をつかうと早い!<早ずし>の誕生

1700年くらいになると、江戸や京、大阪の町に「すし屋」なるものが現れてきましたが、その頃のすしは、箱に酢飯をつめ、その上に魚介類を乗せて落し蓋をし、重しを置いて数時間後に食べるというもの。これは、<早ずし>といわれました。酸味のあるおいしい飯を即席につくるために、酢を使うことがはじまり、すしはさらなる進展をむかえました。といってもはじめは、いまのように酢をご飯に混ぜ込むのではなく、上から茶筅などをつかって振り込む方法からはじまりました。いまのような砂糖を使った合わせ酢ではないが、酒や塩などを加えて、多少味の調整をしていたものかもしれません。
酢は醸造との関係が深く、日本へは応神天皇のころに中国から渡来したとされ、早くから存在しましたが、庶民の間にも調味料として広まったのは、ちょうどこの頃。江戸中期だといわれます。
すしに酢をつかうことについて、発明者として名前がよく挙がるのは、延宝年間(1673~1680)の上方の医師であった松本善甫です。彼の業績を語る書物のなかに、すしの注文に対して、<生なれ>のすしだと、○日○日にという予約になるので、「おじゃれずし」。<早ずし>の場合は、待たせてつくるので、「まちゃれずし」といったなどという記録があり、酢をつかった即席ずしがあったことを示しています。ただこの記録は具体性にかけるので、酢をつかうすしは、松本善甫が発明したというより、その頃上方にすでに酢をつかう風習があり、それを江戸に広めた人という位置づけがふさわしいともいわれます。この頃、上方では酢はつかってはいても、保守的な土地柄ゆえ、「そんなものは邪道だ」とされたのかもしれません。それが、新開地の気風が横溢していた江戸では、すんなり受け入れられたということのようです。
でも、酢はつかってもすしは、やはり「漬ける」もの。重石をかけるなどで熟成させ、味の調和をはかるという過程が必要でした。この頃登場した「箱ずし」「チラシずし」「巻きずし」、「いなりずし」なども、昔は箱や樽に入れて押すという工程が含まれていました。

大和の富を集めた今井の鯖ずし

若狭の鯖に塩をして夜通し走って運んだところから生まれたという京の鯖ずし。鯖街道、鯖ずしといえば、京都と思われがちですが、実は紀伊半島の山間部にも鯖ずしの産地が多く、熊野灘の鯖をつかったこちらのほうが発祥の地だという説もあるのです。山間部に発達し、塩鯖を使うという意味では、柿の葉すしも、この系譜に位置づけられます。その起源については、文化研究家の冨岡典子氏が紹介している説は、「江戸中期に紀州の殿様が熊野の漁師に重い年貢を課したことから、漁師はそのお金をひねり出すために、夏サバを塩で締め、吉野川筋の村に売りに出掛けた」ところから始まったというもの。(『大和の食文化』P37 奈良新聞社、2005年)
熊野灘では、サンマとともに鯖もよく獲れましたが、熊野のサンマずしは有名ですが、鯖ずしはあまり作られません。もしかしたら、鯖は大切な商品として、売りに出されることが多かったとも考えられます。
大和盆地の南縁にあたる、八木、今井、橿原周辺では、江戸時代からよく鯖ずしがつくられましたが、なかでも「今井の鯖ずし」が産地として有名でした。
1712年(正徳2年)頃出版された日本の百科事典ともいえる『和漢三才図絵』には、元禄の頃に、今井(現在の橿原市今井町)で、鯖ずしが名物だったとの記述があります。
熊野から、北山川沿いの東熊野街道を通り、伯母峰峠を越えて、吉野を経て、今井まで約22里(88キロ)。鯖の塩加減からいうと、このあたりへ運ぶのが、最北の到達地点かもしれません。
当時の鯖ずしがどんなふうなものだったかというと、享和2年(1802年)に浪花の杉野権兵衛という人が書いた「鮓飯秘伝抄」という本に、当時の作り方があります(「すしの本」篠田統著 岩波書店)。それによると、「塩鯖は塩出しし、骨や薄皮をとり、酢飯を抱かせ、飯と鯖を交互につめて押し、飯の酸味が鯖にうつったら取り出して、切り分けて飯とともに食べる。朝に漬けて、夕方には食べる」とあります。ご飯ではなく、酢飯をつかうところなど、現代風の作り方に近いものです。
こうしたすしは、後に酢を使うようになっても、重石を置いたり手で押したりして、なんらかの熟成期間をおく製法がとられ、それは江戸や明治はおろか、ついこの20年~30年前まで続いていたのです。
明応5年(1496)の文献「書言字考節用集」に、アユずしで有名な吉野の釣瓶ずしの名も見えますが、春冬で4~5日、夏秋は1日でできるとあって、さらに熟成期間を短縮した<早ずし>に近づいています。

江戸の<にぎり>、上方の<押しずし>

江戸時代も文政年間(1818~1830)になると、京や大阪とは違う江戸独自の文化が生まれてきました。各藩の屋敷に勤めている侍や近辺から集まった職人たち…江戸の町は独身の男が多く、いわば新開地の新しい生活様式や独特の気風がありました。そんな街では手軽に食べられる蕎麦やてんぷらなどの屋台が大流行。すし屋も店舗のほかに振り売りや屋台でも手軽に売られました。
そこで出されたすしは、はじめは酢をつかった押しずしのようなものでしたが、それでもまだ気の長いつくり方だというので、ついに現われたのが、手で握った酢飯に、江戸湾のトレトレの魚や貝をそのまま乗せるという<にぎりずし>です。
当時は魚種が豊富だった江戸湾の新鮮な魚介を使うことから、江戸前ずしと呼ばれました。よほど江戸っ子たちの気風にあったのか、この頃の江戸では各町内に、1~2軒のすし屋があったといわれるほど、隆盛をきわめました。この<にぎりずし>をヒットさせて大店になったのが、「華屋与兵衛」だといわれます。ただし、冷蔵装置のない時代のこと、初期の<にぎりずし>のネタは、火を通したり、ズケにしたり、酢でしめたり、必ず下処理を施したといいます。東京のすしの老舗のなかには、いまも下仕事をするのが、江戸前ずしの伝統、という店がわずかに生き残っているようです。
ネタでいえば、エビ、コハダ、サヨリ、キス、アワビなどバラエティに富んだもの。ただし、いますしネタの筆頭に上がるマグロは、あまりランクの高いネタとは思われなかったようです。
しかし、この<にぎりずし>は、お江戸のいわば郷土料理のようなもの。京や大阪では、依然としてさまざまな魚種の押しずしや棒ずしが主流、海のない京都はまだしも、新鮮な魚が手に入る大阪でも、それは幕末はおろか戦前まで続きました。魚の鮮度だけではない、ネタとご飯が渾然一体となった複雑な味のニュアンスを愛する土地柄かもしれませんね。
すし飯の味付けについても、江戸前が酢と塩だけで、砂糖などの甘みを使わないのに対して、上方では、「すしの飯に六分の旨さがある」というように、酢に塩、昆布、みりんを用いて“はんなり”した味を追求しました。いまも鯖ずし、バッテラなどにつく「大阪ずし」という名称は、そうした押しずしを中心とする味覚の伝統を語るものです。

旦那衆に愛された上方の箱ずし

箱ずしは各地にありますが、名高いのは、上方のもの。鯖、鯛、エビ、アナゴ、それに海のない京都では、生命力が強く日持ちがするといわれたハモを使い、箱に詰めて、<押しずし>にしました。棒ずしや、魚を丸ごと使い、開いた身のあいだに飯を抱かせた姿ずしに対して、魚を箱にあわせて整形します。箱に入れて押すということから、一種類の魚身だけのものではなく、おぼろや玉子焼き、椎茸などの煮野菜を組み合わせるなど、多彩な具材をうまく組み合わせることのできる高級志向の寿司であるともいえますし、趣向を凝らすことのできるスタイルであるともいえます。
箱ずしはもともと、箱漬けの発酵ずしから進化したもの。漬け箱のサイズを小さくし、押したすしがきれいに取り出せるよう、底板を抜けるようにするなど、箱を改良することによって、進化したと思われます。上方では、重石のかわりに両手でギュッと押せるよう、桧で太く作った押し型をつかってすしを漬けるのが、箱ずしの基本だといわれます。ネタに比べ、ご飯の量が多いので、すし飯の作り方に関しては、各店がいろいろ工夫して味を競ったといいます。
ネタの新鮮さが決め手のにぎりずしに対し、箱ずしは押すという過程を経ているので、時間がたっても風味が変わらないのが特徴。持ち帰りずしとしても人気があり、何種類もの箱ずしを食べやすい大きさに切って盛り合わせると、にぎりずしに負けない華やかさが出ます。

彩り鮮やかな上方の蒸しずし

上方で寒い時期に喜ばれたのが、あつあつの「ぬくずし」。冬になると、店頭では蒸篭(せいろ)を出し、さかんに湯気を上げて食欲をそそる…幕末から明治大正の上方の風物詩でした。蒸しずしとは、簡単にいえば、散らしずしを温めたもので、幕末の頃に京都か大阪で考案されたようです。茶碗蒸しのすしバージョンともいえます。
もともとは重箱にゲス板を仕込み、そのまま蒸篭にかけて、できあがってからめいめいの皿によそったものが、芝居見物の昼食によく食べられ、出前することが多くなると、初めから茶碗に盛ることになったとか。この茶碗、蒸した湯気が通るように底に穴の開いた専用の容器があったとか。大勢の客をさばくためには、スピーディーに蒸しあがり、都合がよかったのだそうです。
ネタは熱を通しても色が変わらない椎茸、高野豆腐、焼きアナゴ、おぼろなどを店ごとに工夫を凝らし、蒸しあがってから錦糸卵を散らして供されるぬくずしは、彩り鮮やか。いかにも当時「天下の台所」といわれた大阪の街の華やぎが目に見える郷土ずしです。
江戸時代、大阪は商業の町として豪商も多く、味を競う料理屋や飲食店が早くから発達してきました。また全国の食材に恵まれ、京都の「着倒れ」に対して、大阪は「くいだおれ」の町といわれました。大阪ずしは江戸前ずしとは好対照で、江戸前がネタの良さで勝負する屋台からはじまったのに対して、すし飯と具の調和を重視したもので、テイクアウトはできますが、基本的に料理屋のすしといわれます。 いまでも関西の料亭では、食事のシメに小さな茶碗によそった温かな蒸しずしを出してくれるところが少なくありません。

いまも愛されて、手軽に食べられる、紀伊・大和のおすし

上方文化の影響をうけつつ、自然あふれる風土の中で育まれた紀伊・大和の個性的なおすしをご紹介。今現在、駅弁になっていたり、名産ずしとして 売られていたり、地域のお店や家庭でつくられているものばかりです。

一つのおすしから、その地方の風土や歴史までも感じていただければ幸いです。つくり方は、その地域や店、家庭ごとに違いはありますが、一般的な方法を簡単に記しました。

橙をギュッと絞る…熊野のサンマずし

あはれ 秋風よ 情あらば伝えてよ-
男ありて今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて 思いにふける と。
さんま、さんま。
そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて
さんまを食ふはその男のふる里のならひなり。秋刀魚の歌 佐藤春夫
大正から昭和にかけて活躍した詩人・佐藤春夫さんがうたった秋刀魚の歌。青き蜜柑の酢をしたたらせて食ふならいのある古里とは、新宮市のことでした。
熊野灘や紀州沖には秋から冬にかけて連日、さんまの大漁が続きますが、この地域では、昔から、大量に獲れるサンマを丸干しにするほか、昔は秋にとったものを塩漬けにして、なれずし(早なれ)にして、正月や冬の貯蔵食としました。
サンマというと脂の多いイメージを浮かべ、それがおすしになるの?と首をひねる方もいるかもしれません。サンマは近海を回遊しますが、日本沿岸を南下し始めるのは、夏から秋にかけて。8月中旬に北海道で獲れはじめ、次第に三陸沖、房総沖まで下って、熊野灘に到来します。
北の海で獲れるサンマは10~20%と脂肪をたっぷり含んでいますが、南下を続けるうちに脂肪は徐々に減少して、紀州沖で獲れる頃には産卵を終えるため、脂肪分はたった5%ほど。北洋からはるばる南下してきたこの地域のサンマは、脂気も抜けて身が締まったもの。脂肪の少ないサンマだからこそ日持ちがよく、おすしにするのに最適なのです。サンマの丸干しもこの地方ならではの名産です。
昔、サンマのなれずし(早なれ)は、熊野川をのぼって上流域に伝えられたらしく、熊野山中や本宮から、十津川村付近、さらには東熊野街道を北上した奈良県の上・下北山村などに、広く伝わっています。いずれも、熊野灘のサンマに浜塩をきかせたものが、運ばれ、ちょうどお正月のご馳走として喜ばれたのです。
サンマずしも、今ではごはんに酢を使う<早ずし>タイプが主流になりましたが、この地域の祭や正月に欠かせない伝統的なご馳走。名産ずしとしてお店でも売られています。 トレトレのサンマを、頭をつけたまま開き、塩をふったのち、ぎゅっと絞ったダイダイ酢でしめ、すし飯を抱かせた姿ずし。食べてみると、ダイダイの香りが広がる独特の風味は、想像以上にさっぱりしたおいしさです。【サンマ姿ずしのつくり方】
1. サンマは背開きし、内臓や骨を除き、塩で締めた後、だいだい酢などで締める。
2. すし飯を細長く固めてサンマの腹に詰め、布巾で成形します。
※ サンマは少しあぶっても美味しくなります。

山の暮らしから生まれた…メハリずし

吉野の杉・ヒノキは全国的に有名ですが、熊野や尾鷲など紀伊半島全般が、山仕事で生計を立てる人が多い地域でした。林業や炭焼き、伐採した木を川で運ぶいかだ流しなどの仕事に従事する男たちのために、大量のカロリーと塩分を補給するためのお弁当として、各家庭でつくられたのが、このメハリずしでした。
「すし」といっても、漬物にした高菜の葉で巻いたおにぎりなのですが、もともとのものは、ボール大ぐらいで、おにぎりとしてもずいぶんと大きいもの。大口をあくと目を張るほどの大きさだったのが名前の由来だといいます。素朴な味ですが、高菜の漬物の風味がご飯にマッチして、山仕事のスタミナ源にぴったりでした。
高菜の産地といえば九州が有名ですが、熊野地方の山間部でも高菜は盛んに栽培されていたのです。山間部の寒暖差の激しい気候風土が、高菜の栽培に適していて、味のよい大きな葉が生育。この地方では、ゆでたり、炒めたりしても食べますが、漬物にすると高菜独特の辛味・風味がでて、さらに美味しくなります。
このごはんにピリッとした風味の漬物という、シンプルな味わいが新鮮に感じるのか、現代でも人気があり、和歌山県、三重県、奈良県の熊野川やその支流の流域で広く作られ、ゴマ、じゃこ、かつお節をまぜこむなど、地域ごとに工夫がなされているようです。
奈良県の上北山村では、中のご飯に、高菜の茎のみじん切りと生節(なまぶし、カツオを堅くならない程度に乾燥させたもの)の小さく削ったものを混ぜ合わせるといいます。
新宮駅の駅弁としても有名。各地のお店でも少し小ぶりにして、中の具に趣向を凝らしたものを名産ずしとして出しています。【メハリずしの作り方】
漬けたタカナの葉の部分を広げ、握り飯を周りから包み込む。
中の握り飯は、普通のご飯でもすし飯でもOK。
ご飯に、細かく刻んだタカナ漬けを混ぜることもあります。

桜千本を舞台に…吉野のアユずし

海から遠い地区では、新鮮な魚の入手が難しく、川魚でつくるおすしは貴重なご馳走。吉野川、熊野川、日置川、宮川、北山川流域では、アユずしがさかんにつくられました。朝廷に税の一種である調として<アユのなれずし>を献納していた奈良時代の昔からの、よく知られた産地です。
なかでも有名なのは、「釣瓶ずし」として知られた吉野のアユずし。江戸中期の戯作者・竹田出雲の作で、義経千本桜(歌舞伎18番狂言)というのがありますが、その中の『鮓屋の段』に出てくる「釣瓶ずし」は、いまから800年ほど前から吉野の下市に実際にあったすし屋のアユずしのこと。
井戸の釣瓶に形のよく似た曲げ輪のすし桶に、ご飯とアユを詰めて発酵させたもので、江戸時代には、徳川将軍家や仙洞御所の御用達にもなったといわれます。この華麗な歌舞伎の舞台となり、釣瓶ずしを出していた「すしや弥助」は、料理旅館となって今なお残っています。
本来は、新鮮な鮎を開いて塩漬けし、塩味をつけた飯を詰めて2週間~1か月間漬けて自然発酵させ、完熟する前に食べる<生なれずし>で、すし飯とアユが熟れて、アユ独特の香りに、乳酸発酵した酸味が合わさり、なんとも言えない独特の風味でした。やはり、嗜好の変化でしょうか、いまでは<生なれずし>ではなく、アユの姿ずし(酢を使った早ずし)が主流となっていますが、浅く酢で締めたアユは、ほんのりとほろ苦さを残し、たまらない野趣をかもしています。
吉野下市の各お店や、北山川、日置川流域や熊野古道周辺のお店などで、アユの姿ずしを食べることができます。
ちなみに、この義経千本桜の中では、主人公の平維盛(たいらのこれもり)が、追っ手をのがれるため、侍の身分を捨て、弥助と改名して、すし屋の養子となる決心をしたその日にちなんで、「全国すしの日」が11月1日と決められたとか。【アユの姿ずしの作り方】
1. アユを腹開きにして中骨やヒレをとり除き、薄塩につけて1時間ほどおき、塩を洗い流して水気をきり、酢につけておく。
2. かたく絞ったふきんを広げ、棒状ににぎったすし飯をのせ、アユをのせて包み、形をととのえ、桶に並べて入れ、押しをして1日ほどおいて形をなじませる。

山と海の幸がであってできた柿の葉すし

すっかり大和の名物として、全国的に知られるようになった柿の葉すしですが、奈良全域ではなく、主に吉野地方や五条などを中心につくられます。なぜ、海のない奈良県、それも高い山の谷筋や盆地の村に発達したのでしょう。実は奈良県だけではなく、紀伊半島の山間部にも柿の葉すしの産地が点在。東熊野街道沿いの吉野郡の各地、さらに五条、御所、高市のほか、和歌山の橋本や紀ノ川流域などでも伝統的につくられているのです。
江戸時代ともなると、熊野灘で獲れた鯖は、しっかり浜塩をして、いろんなルートで遠隔地にも運ばれるようになりました。東熊野街道沿いの村には、人が背中に塩鯖を負い、名だたる山道や谷の難所を越えて運ばれますが、伯母峰峠を越えた川上村まで、二日程度で運ばれたそうです。浜塩というのは、大量の塩を魚の腹に詰めこみ、魚が傷むのを遅らせる保存法ですが、この地域についたころには、ちょうどいい加減の塩鯖ができていたというわけです。
柿の葉すしは、いまでも奈良県吉野郡の、上北山村、川上村、東吉野村、吉野町などで、広く作られます。東熊野街道は、鯖街道ともいえますね。
一方、船で紀ノ川をさかのぼるルートでは、鯖は浜塩をしっかりかけて、当時の物資の集配地であった和歌山県の橋本や奈良県の五条まで船で運ばれたのでした。橋本には塩市があり、周辺への販売権を紀州藩から認められ、高野山や五條へ塩、米、みかん、鯖などを売った当時の物資の集配地でした。さらに、紀ノ川の流域は伏流水に恵まれ土壌で、昔も今も柿の産地として知られています。 柿の葉すしは、海の幸と山の幸が出会ってできた郷土のすし。東熊野街道と紀ノ川という、江戸時代の流通ルートの発展が大いに関係したようです。
もちろん、柿の葉すしのはじまりは、酢をつかわずに発酵させて酸味をつくる<生なれずし>でした。浜塩をした鯖を薄くそぎ、ご飯を大きく握ったものを抱かせ、どこの家にも植えられていた渋柿の初夏の青々とした葉で包む。1枚の葉では包みきれない場合は、葉を2枚で包むこともありました。それを四角い木の寿司桶に隙間なく入れ、重石をおき、1ヶ月ほど熟成させると酸味が生まれ、すしができたというわけです。 柿の葉に含まれるタンニンには、抗菌作用や防腐作用、蛋白質を凝固させる性質もあって、サバの身を締めてくれます。また柿の葉の香りは魚臭みを消す作用をするなど、さまざまな効用があり、先人の知恵に感心させられます。山里にあっては、白いご飯も鯖も貴重なもの、ハレの日の贅沢なご馳走でした。
しかし、現代的な嗜好でいうと、ちょっとしょっぱいおすしだったかもしれません。作るのに時間も手間もかかり、祭りの日から逆算して漬け込まなくてはなりませんし、その年の気候によっては、微妙に調節が必要でした。どの家にも代々のノウハウや言い伝えなどがあったことでしょう。いつのころからか、次第にごはんに酢を使った簡便なものになっていきましたが、「ついこの間まで、酢はつかわなかった」という話は聞いても、それがいつの時期のことかは不明です。その言葉自体が言い伝えのひとつかもしれません。
つい今から30年ほど前には、この地域では、村々で夏祭りや秋祭りにそなえて、どの家庭でも柿の葉すしをしこみ、互いの味を賞味しあったものでしたが、すでにごはんにも鯖にも、酢をつかったものが普通だったと思われます。でも柿の葉すし専用の木桶にいれて重石を置き、一晩ほど寝かせるなどして、味の調和をはかりました。
柿の葉すしの専門店でも、少し押してなれさせていたのは、やはり30年ほどまえのことでしょうか。そのかわりに、塩分を少なくし、独自の工夫で美味しさを追求した風味になり、魚も鯖だけではなく、鮭をつかったものなどバラエティにとむようになりました。大きさも、昔各家庭でつくっていたものにくらべ、一口サイズの小さく洗練されたものが今風です。
東吉野村(奈良県)には、朴の葉すしが、夏祭りの伝統食として伝わっています。作り方は柿の葉と朴の葉の違いだけのようです。
【柿の葉すしの作り方】(吉野地方の伝統的な作り方)
米1升に対して塩鯖1匹(700gくらい)、柿の葉(80~90枚)
1. ご飯を炊き上げ、少し甘めの酢加減ですし飯を作る。
2. 塩鯖を3枚におろし、1時間くらい酢でしめ、薄皮を取って3~4mmにすいて酢につけておく。
3. すし飯を俵型に握り、きれいに洗って水気をとった柿の葉の表面に鯖をおき、にぎり飯をのせ、葉でくるむ。
4. すし箱にきっちり詰め、重石をのせて一晩くらいおいてから食べる。

鮭をのせる昭和の名産、笹巻のおすし「ゐざさ寿司」

みずみずしい笹の葉から、鮭の赤身が顔を出す…すし飯に鮭をのせ、笹でひと包みした笹巻きずし。昭和30年代、大台ケ原までドライブウェイができるのを機に、地域の名産品をということでつくられた中谷本舗のオリジナルすしです。
大台ケ原らしいものと言えば、森全体をびっしりと覆い尽くす苔、原生林、水、そして笹…。大台ケ原は、熊でさえ笹やぶに隠れて見えないほどだと言われる、笹の群生地。年を経て背中にいっぱい笹をはやした大猪の姿をした山の神さまの伝説もあった土地柄です。
そこでできたのが、大台ケ原名物の笹巻きずし。笹は、その抗菌作用やさわやかな香気をもって、昔から料理に使われていました。植物の葉ですしを包むということでは、この地域には柿の葉すしやメハリずしという先例がありました。
鮭はもともとこの地域の川で目にすることもなく、あまりなじみのなかった魚でしたが、大台ケ原の麓である上北山村では、大正年間に、第一次世界大戦の影響で木材需要が急増し、大勢の山林労働者が出稼ぎにきていたということがありました。故郷を離れて働く男たちのもとに届けられたのが塩鮭で、よく窓からつるされていました。鮭の産地の北国から来た人が多かったのかもしれません。食べてみると香りが良く、どんな料理とも相性がよいため、昭和30年代のこの村でも、すでにポピュラーな食材となっていたのです。
笹をはらりとほどくと、笹の香りが食欲を誘い、鮭とシャリの味が絶妙のハーモニーをかもし出す…「ゐざさ寿司」は、いまでは柿の葉すしやメハリずしと並ぶ名産ずしになっています。

新しいすしの可能性を開くか 郷土色のあるすし

ここで取り上げている紀伊、大和の各地では、いま見てきたようなすしの先端の歴史とはつかず離れずの関係。上方文化の影響のもと、より各地域の風土や生活環境に根ざした形で、味わいを深め、洗練させていったものです。
戦後の高度成長期がはじまって、冷蔵設備がととのってからも、すしは特別な日のためにつくるものとして、その味わいを愛し、家庭で昔から伝わる製法をとってきたのです。
ひるがえっていうと、どんな山奥でも新鮮なネタのすしが食べられる現代では、地域性も薄くなり、鮮度を競うものでしかなくなった<にぎりずし>にくらべ、まことに個性的なすしとして存在しているといえます。
すしは、いまや日本料理の代表選手。ヨーロッパやアメリカ、中国などでも、ヘルシーでデリシャスな食べ物として知名度が高くなり、もはやSUSHIといえば世界中に通用する時代。
アメリカで生まれたカリフォルニア巻きなどの例を見ると、まだまだ発展途上。手のかけようから行くとスローフード、食べ方からいうとファストフードともいえる多様な顔を持ったすし。生活環境の変化にあわせて、新しい食べ方がまだまだ広がる可能性をもった料理です。
郷土色ゆたかな食べ物としていまに残る紀伊・大和のすしに、意外とそのヒントが隠されているかもしれません。

参考資料

「すしの歴史を訪ねる」日比野光敏著 岩波新書

「すしの本」藤田統著 岩波現代文庫

「大和の食文化 : 日本の食のルーツをたずねて」冨岡典子著 奈良新聞社

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